タドサック / ニューイングランド       7 8

セミクジラ研究室
   / リュベック   

 BBS
 / Blog / ホーム
オフシーズン 〜1992年春まで


ナチュラリストのシンメンは、ボランティアに親切で船酔いすると自己紹介したとき、「自分も船酔いするんだけど大丈夫だよ」と言ってアドバイスをくれた
「アジア系の人間は構造的に船酔いしやすいんだ」とも教えてくれ、励ましてくれた。私は、ずっとナチュラリストとして働いているシンメンでさえ、船酔いするんだと知って、心強かったし、船酔いすることを恥ずかしいことと思わない態度が、新鮮だった。

彼は、ボイヤジャーから撮った、すばらしい鯨の写真を何枚も持っていた。それを見せてくれながら、「これが、ザトウクジラの採餌(エサをとる)行動、これこれこうで、こうやって鯨はエサをとるんだ」と言う具合に、いちいち教えてくれた。それらは私には、幾年かかっても撮れないようなものばかりだった。

しかし、これが災いして、シンメンはシーズン半ばで水族館を去ることになってしまった。

秋頃だったろうか、「このところシンメン見ないけど」と、リサに訊いて分かった。シンメンは、自分の撮った鯨の写真をボイヤジャーの乗客に売っていたそうだ。

ニューイングランド水族館の就業規則では、職員やボランティアが、水族館で働いている立場を利用して営利行動や広報を行うことを禁止している。水族館の所有する建物や動物をビデオ・写真撮影した場合、それを水族館の広報に無断で、販売したり出版することはできない。また、テレビや雑誌の取材に対しても、「広報に訊いてください」とお願いするか、話すときは、あくまで自分の意見ではなく、水族館の代表として答えることになっている。

たとえボランティアでも、もし、規則に違反したばあい、最悪の場合、解雇になる可能性もある。

この規則があったので、先日、日本のラジオ局の捕鯨についての討論会に出ないかと誘われたとき、ブライアンに「何を話せばいいの?」と訊いた。鯨に関して言えば、水族館は調査捕鯨を含めて捕鯨に反対の立場をとっている。ホエールウォッチングではお客さんから、捕鯨について意見を求められても、ボランティアは自分の意見を述べては行けない。私は、水族館のボランティアとして討論会に出るのか、個人として出るのか、どう言う立場で望めばよいのか分からなかった。ブライアンに「自分の考えるとおりに話せばいい」といわれて承知した。

シンメンのように、自分の有利な立場を利用して利益を得る行為は、水族館の規則に違反する。その上、私たちボランティアには優しかったけど、シンメンは、クルーにはあまり好かれていなかったらしい。自分の写真を撮るのに時間を費やしすぎて、クルーの一員としての仕事にはあまり熱心でなかったそうだ。そういえば、シンメンが売店で働いたり航海後の掃除をしているところを、見たことはなかった。
「私だって、あれだけ時間を費やせば、いい写真が撮れるし、撮りたい」と、もともと写真家として水族館に入ったリサが言った。

シンメンがいたころはあまり話したことのなかったリサとも、シンメンが水族館を辞めた話を聞いた頃から少しずつ親しくなった。
リサは、女性らしい思いやりと「海の女」のたくましさの同居する人だ。すべてのボランティアと積極的に関わろうということはしなかったが、気さくでさっぱりしている。たぶん、シンメンやスコットほどボランティアと交流がなかったのは、そんな性格からだったろう、悪気ではない。

日本のラジオ局の取材があった日の帰路は、4〜5秒おきに船底を荒波がどんと突くほど海が荒れていた。船室の外にぐるりとある椅子の上をぽんぽんとたたいて、「ここに座って、話をしよう」とリサに言われ、ボイヤジャーのデッキのベンチに2人で並んで座った。彼女は、「鯨も、動物だ」と言った。「もし管理できるなら、鯨を食材にすることは、自然なことだ。」さらに「鯨の肉食べたことある?」とも訊かれた。

私はリサほど寛容ではないが、密輸・密漁や他国籍船の日本人による操業を含む捕鯨管理を行って、日本が鯨を絶滅させないと、責任が持てるなら、日本が商業捕鯨をはじめるのは止められないと思う。「鯨は頭がいいから」とか「神聖だから」という理由が、捕鯨を止める理由にはならない。でも、今の日本のように、都合のいい被害者意識部分だけは広めて、都合の悪い部分は口をつぐんで「捕鯨は日本文化だ」と言っても、私には納得できない。

その日は、スコポラミンのおかげで、全く酔っていなかった。私は波乗りをしているような気分で、「酔ってない時の荒れた海って面白いね」と言うと、リサは申し訳なさそうな顔をして、「フネ、ほんとに気の毒だわ」と言ってくれた。

リサだけでなく、クルーみんながそういう態度だ。
船に弱いのに船で働きたいのだから、「しょうがないでしょ」といわれてもしょうがないのに、みんな優しい。クルーのデールは、私たちボランティアに、「あなたたちって、本当にすばらしい」と、日本語にすると歯の浮くようなほめ言葉でいつも声をかけてくれるが、私が船酔いしていると、塩付きクラッカーを持ってきて、忙しくない時は心配そうな顔をして付き添ってくれる。

私は、この1年で、車やバスには酔わなくても船には酔うということが分かった。酔うと分かっていても、鯨には会いたいから、あれやこれや効くと言われた酔い止め対策をすべて試みた。

食べ物なら、ショウガのカプセル、塩付きクラッカー、塩の濃いプレーンのおにぎり、しょうゆ味のおかき、ジンジャーエール、オレンジジュース、他に、酔い止めバンド、タイレノール、アレルギーの薬、スコポラミンを試した。

おにぎりは、今や私の必須携帯品になった。それも、ちょっと一口くらいではなく、「もう入らない」lくらい、食べて食べまくっている。オレンジジュースは、「いいかな」と思って飲んでみたが、逆効果で、かえって気分が悪くなった。カフェインの入った飲み物はなおさらだ。(コーヒーのにおいさえきつい時があった。)塩付きクラッカーはいつもボイヤジャーに置いてあって、気分の悪そうな人に持っていったりする。
これは、井の中の水分を吸収してくれることで、船酔いの気分を軽減してくれるようだ。

薬類で一番いいのは、スコポラミンだ。日によってボイヤジャーがものすごく揺れる場合があるが、そう言うときに酔わないと、船の上は遊園地の乗り物に乗っているようで、楽しい。
ただ、口の中はからからに乾くが、それでも、酔うよりずっといい。
酔い止めバンドは、つぼを間違えたのか、全く効かなかった。どういう訳か、タイレノール(痛み止め、熱冷まし)やアレルギーの薬は、大体効いた。もちろん、これらの薬は、たまたま風邪を引いていたり、アレルギー症状の時に薬を飲んで乗船したことが始まりだが、どうして船酔いに効くのか、理由は全く分からない。

よく考えると、ここは水族館で、船酔いとは密接な関係がある。誰も彼も仁王のように平然と、嵐の海さえ渡り歩くわけではないのだ。
水族館には、船酔い対策を講じている人が結構いた。
人それぞれに、酔わない対策がある。私も私のやり方を見つけるしかない。

ただ、船酔いする人としない人がいるのではなくて、体調や食べ合わせによって誰でも船酔いすることは分かった。救命士と航海士の資格を持つリサでさえも「ピザを食べると悪いんだよね」と言っていた。
「船酔いは気分の問題だ」と酔う人に冷たく言い放つのは、思いやりがない。だからどうしろと言うんだ、どう気分を変えろっていうんだ、変えられるものならとっくに変えてます、と私は言いたい。誰も、病気で苦しむ人に追い打ちはかけない。



ニューベッドフォード捕鯨博物館


ウォッチングの休みを利用して、ニューベッドフォードの捕鯨博物館を訪問した。

ニューベッドフォードは、ボストンからバスで2時間ほど南下した、大西洋にカギ状に突き出たコッド岬の付け根にあり、岬南端にある捕鯨港のナンタケット島とともに、メルビルの「白鯨」に出てくる。

      ニューベッドフォード港
      捕鯨博物館から港を望む。
      この先はその昔、捕鯨港として栄えただろうが、今はごく静かな港だ。

昔は、捕鯨の基地として、宿屋や酒屋が大いに賑わったニューベッドフォードは、今は、人気のない、ひっそりとした場所だった。所々に博物館にやってくる観光客に向けてか、鯨の看板の出た土産物屋やレストランがあるが、にぎやかなボストンから来ると、ゴーストタウンのように感じる。暗くなって道にぽつりぽつりと明かりがともると、時たま歩いている人も、昔の影のように思える。

博物館は古くて大きくて、以前は商工会議所か何か、別の目的でたてられていたものらしく、いくつもの部屋に分かれていた。そのうちの大きな部屋の1つには、捕鯨で使われた道具が展示されていた。
鯨を突き刺す鉄製の銛は、長さが1mくらいで、先端が様々な矢印の形になっていた。そのうちの1本は、鯨に打ってはずれたもので、鯨に当たった瞬間、細い針金にでもなったかのように、くねくねっと2回曲がっていた。

            捕鯨銛 ハプーンくねっと曲がった銛

部屋の中央には、ボイヤジャーと同じくらい大きな木製の捕鯨船があったが、これは鯨を見つけるための船で、実際に銛を打ち込むために鯨に近寄るのは、その脇に取り付けられた競艇用ボートぐらいの大きさの、10人乗りくらいの小さな手こぎのボートだ。ボートの端には長い縄の巻かれた杭があり、その先を銛にくくりつけて鯨に命中させるのだ。
銛が突き刺さった鯨は潜るので、巻かれた縄はどんどん少なくなっていく。縄が急激に引っ張られるので、摩擦熱で燃えないように、縄に水をかけるヒシャクもある。鯨に引っ張られて、小さな船はどんどん引きずられるし、縄に巻き込まれる可能性もある、命がけの仕事だ。

この当時捕っていたのは、最大18mに達するマッコウクジラだ。頭が大きく、体長の40%をしめる。
展示されている歯の生えたマッコウクジラの下あごの骨格(上あごには歯がない)は、人間の背丈の3倍くらいの長さがあった。そのころは、マッコウクジラの頭の中の脳油を燃料として利用するために、鯨を捕っていたが、他に歯と竜涎香も利用された。

           マッコウクジラの下顎骨マッコウクジラの下あごの骨

歯は、長い航海の慰み物として、船乗りがそれに彫り物をした。別室に陳列されていた「スクリムショー」と呼ばれるマッコウクジラの歯の彫り物は、こんな荒々しい仕事をする船乗りの仕事とは思えないほど繊細で、いろいろなテーマで掘られていた。
これらは、船乗りの帰りを待つ恋人や妻への贈り物にしたようだ。

嵐の去った海岸などでみつかる竜涎香は、黒い塊で、火山でできたとか、鯨が飲み込んだものだとか考えられていたが、今ではマッコウクジラの腸の中で消化されたなかったイカのくちばしの周りに固まってできた物質だと言われている。代替化学物質の発明されていなかった当時は、香水の原料として、高値で取引され、発見者は一財産作ることができた。

別の部屋では、昔の捕鯨の様子を撮った記録フィルムが上映されていた。港では、鯨油を入れた大きな樽が次々と荷下ろされて、あふれんばかりの人が直接・間接的に捕鯨に関わり、当時のニューベッドフォードが、いかに捕鯨業で賑わっていたかがうかがえた。
ニューベッドフォードは、古くから捕鯨者を送り出していた高知県土佐清水市と姉妹都市だそうで、ここで働くボランティアの方の紹介で、ちょうど今日、その土佐清水市から訪問中の団体と一緒にフィルムを見た。

部屋の外には、マッコウクジラやナガスクジラの骨格標本が天井からぶら下がっていた。

廊下の壁には鯨の取引や乗組員の雇い入れに使われた資料、メルビルが実際に捕鯨船に乗った記録も残っていた。窓からは、昔の夢を見ている古い港が見えた。しかし、船のオーナーを除いて、鯨産業で富を築いたのはほんの一部の人間だったようだ。多くの乗組員は、過酷な労働条件で死と隣り合わせで働いていた。
また出航前にたいていたくさんの借金をするので、捕鯨時代の終わりには鯨が捕れなくて借金が返せずに破産することもあった。

現在のアメリカでは、海棲ほ乳類保護法が施行され、鯨、イルカ、アザラシやそれらでできた製品の取引が禁止されている。いまだに捕鯨を続けている国を間違っていると考える人も多い。しかし、捕鯨の歴史は、こうして大切に保管されている。質問があれば、ボランティアの人が親切に答えてくれる。売店には、鯨や捕鯨に関する資料やおみやげがたくさん売られている。

日本は、捕鯨文化が失われることを、捕鯨続行の理由の1つにあげているが、何も、捕鯨を止めることで文化そのものまで否定されると考える必要はないんじゃないかと、私は思う。100かゼロか、是か非かではなくて、伝えて行かなくてはならないものは、ニューベッドフォードのような形で後世に伝えることもできるのだ。ことの善し悪しは別として、歴史の事実を否定することは、何の進歩ももたらさない。





タドサック / ニューイングランド       7 8

セミクジラ研究室   /
 リュベック   

 
BBS / Blog /  ホーム


inserted by FC2 system